【メディア掲載情報】「鹿児島の近現代」教育研究センター所蔵の資料と、丹羽センター長のコメントが掲載されました(南日本新聞・11/19)

11月19日の「国際男性デー」に合わせて九州の4紙(南日本新聞、宮崎日日新聞、熊本日日新聞、西日本新聞)が合同で、「九州男児」という言葉に対する意識調査を企画しました。

アンケートでは「九州男児」という言葉に対するイメージは、男性ほどポジティブで、女性ほどネガティブでした。「九州男児」のイメージが引き継がれていくべきかについても、高齢の男性ほど肯定的で、若い女性ほど否定的、という結果が出ました。

ジェンダー平等志向の価値観が広がる中で、もはやその存在すら危ぶまれる「九州男児」という言葉ですが、そもそもこの言葉はいつ、いかにして生まれたのでしょうか。その謎を解く手がかりとなるものが、本センターには所蔵されています。設立時に本センターに寄贈された史料で、佐賀県から出征した兵士の日清戦争の従軍日記です。(以下、令和4年11月19日付南日本新聞朝刊14面に掲載された特集記事「揺れる『九州男児』」の一部を転載。)


「“起源”は兵の士気高揚か」

「九州男児」は、いつ、どんな経緯で使われるようになったのか。専門家は「はっきりとは分からない」とするが、それぞれの見解や資料をたどっていくと、その“起源”がうっすらと見えてきた。
「一歩モ引(ク)ナ 此処ゾ 九洲男子ノ命ノ捨テ処」-。鹿児島大学「『鹿児島の近現代』教育研究センター」にある日清戦争(1894~95年)従軍日記の一節だ。佐賀県から出征した兵士が記した。
丹羽謙治センター長(59)=日本近世文学=は「少なくとも、この時期に軍隊で使われていたことが分かる。九州を一つにまとめて捉える発想は明治以降に生まれた。九州男児が登場する資料では古い部類ではないか」と解説する。

「鹿児島の近現代」教育研究センター所蔵の『日清戦闘陣中日記』(冒頭部分)
『日清戦闘陣中日記』の中の1ページ。左ページ中央左寄りに「九洲男子」という言葉が見える。

志學館大学(鹿児島市)の原口泉教授(75)=日本近世史=は、薩摩藩(鹿児島)出身者が大半を占めた邏卒(らそつ、明治初期の警察官)に着目する。

現在は人を怒る際に使われる「おい、こら」は、元々は「ねぇ、ちょっと」を意味する薩摩の方言で、邏卒によって全国に広まった。加えて江戸時代、当時珍しかった肉食が薩摩では盛んで、他藩出身者と比べて長身の人が多かったという。「街中で『おい、こら』と声を掛ける大柄の男。きっと怖かったはず。九州という大きなくくりで認識され、現在のイメージにつながったのかも」と推測する。

「『~男児』という言葉は、かつては九州以外にもあった」と語るのは、神奈川大学の駒走昭二教授(53)=日本語学、鹿児島市出身。19世紀末以降、日清、日露戦争の時期の雑誌には、鎌倉や奥州、東京のほか、日本、神州に「男児」が続く文言が確認できるという。「国外に出て戦う兵士を鼓舞し、勇気づける一種のアイデンティティーになった。九州男児もその一つだろう」

では、なぜ現代社会で九州男児だけ残ったのか。駒走教授は「戦後、軍国的な言葉は使われなくなっていった。九州男児という言葉のイメージは強い、豪傑、亭主関白、男尊女卑などと一長一短あるが、九州出身者はむしろ誇らしいと認識し、使い続けたことで、自然と残った可能性がある」と話した。(上柿元大輔)


言葉の持つイメージの中にポジティブなものもあったため、使われ続けた可能性があるとのことですが、もともと兵の士気高揚のために使われたのが起源なら、現代に合わなくなるのも頷けます。アンケート全体についてコメントしている上智大学の三浦まり教授によると、「九州男児」という言葉の持つイメージを刷新して、これからもこの言葉を生かしていくのか、それとも博物館送りの言葉にするのか、今はその転換期だろうとのことです。

センターでは今後も、近代以降、現代までの偉人と呼ばれる人間のみならず、庶民の日々の営みや心のありよう、商売の様子から銃後の生活まで、普段あまり光の当たらないところにもスポットを当て、丁寧に研究していきます。