【メディア掲載情報】地域シンポジウム「沖永良部の近現代—沖永良部の昭和—」の記事が、「奄美新聞」に掲載されました。(12/7)

令和6年12月6日(金)、沖永良部で開催された地域シンポジウム「沖永良部の近現代—沖永良部の昭和—」の様子が、「奄美新聞」に掲載されました。

(以下、令和6年12月7日付「奄美新聞」第9面より転載。)

「地域シンポジウム『沖永良部の近現代』沖永良部島の昭和」が6日、和泊町役場結いホールであった。2025年が昭和100年にあたることから「♯昭和99」をテーマに、トークイベントを開催。沖永良部台風を振り返り、歴史史料の保存と活用の重要性について意見を交わした。

鹿児島大学法文学部附属「鹿児島の近現代」教育研究センターが主催。沖永良部での地域シンポジウムは3回目となる。

最初に沖永良部出身の作家、一色次郎のブックレット刊行記念として同センターの鈴木優作特任助教が特別講演した。一色が1972年に刊行した『日本空襲記』について、62年刊行の「東京空襲」の記述と比較し「『青幻記』(67年刊行)以降、作風が変わっていく。記録文学としてだけではない評価がこの作品の中に見られる」と述べた。

続いてトークイベントを開催。テーマは「歴史史料の収集・保全・利活用」と「沖永良部台風の記録」の二つ。

歴史史料について、今年5月に刊行された和泊町誌の執筆者の1人で和泊町歴史民俗資料館の伊地知裕仁さんは「考古学の部門が旧町誌以降、研究が進み、その成果を新しい町誌に掲載できたのは大きい」。現在町誌の編さん作業が進んでいる知名町町誌編さん室の森田太樹さんは「文献史料が少なく、町誌編さんを機に多くの史料が見つかることに期待している」とした。同センターの伴野文亮特任准教授は「戦争に関する史料の保存が思っている以上にないがしろになっている。戦争体験者が限りなくゼロになっている現状で、一次史料や記憶を未来に伝える術を講じておく必要がある」と述べた。

1977年9月9日に襲来した沖永良部台風について、当時役場職員として対応にあたった和泊西郷南洲顕彰会の伊地知実利会長は「防災無線がなく、役場職員が消防車やジープを使って住民に注意を呼び掛けた」「台風による死者がいなかったのは、台風の目に入ったのが深夜で、住民が外に出なかったことが理由かもしれない」「体育館の中はガラスが散乱し、避難所として機能しなかった」「台風後、島外に出ていた出身者が復旧のために島に戻ってきて人口が増えた」など台風襲来時の様子やその後の町の変化を語った。

鹿児島大学法文学部の澤田成章准教授は「47年前に台風からどのように復旧していったのかを振り返り、現在も同じことができるのか考え直してほしい」。同センターの日高優介特任助教は「島民一人一人が持つ台風のエピソードを改めて集めることが重要だと考えている。沖永良部台風襲来から50年になる3年後に沖永良部台風の記憶についてシンポジウムを開催したい」と述べた。

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また、関連記事も掲載されました。

(以下、令和6年12月7日付「奄美新聞」第8面より転載。)

知名町出身の郷土史家、故弓削政己氏が同町へ寄贈した文献史料に関する企画展示が6日始まり、知名町役場フラワーホールで記念式典があった。同町の今井力夫町長は「弓削氏の功績を地元の人に知ってほしい。子どもたちにも新たな学びになる」と期待を込めた。

同日開催の地域シンポジウム「沖永良部の近現代」(鹿児島大学法文学部付属「鹿児島の近現代」教育研究センター主催)の関連イベントとして行われた。

弓削氏は2016年3月に死去。生前からの要望で、所有していた文献史料約1万点を町へ寄贈した。

町は、19年に文献室と史料室を中央公民館に整備。鹿児島大学と協力して文献史料の整理作業を進めてきた。今年8月19~31日には、鹿児島大学法文学部の准教授と学生ら7人が来島し作業。現在までに約6500点の目録化が完了した。

今回の企画展示では、弓削氏の功績や寄贈に至るまでの経緯のほか、収集史料の軌跡や整理作業の様子をパネル展示した。寄贈された文献史料は、公開に向けて準備を進めている。

式典で、「鹿児島の近現代」教育研究センターの丹羽謙治センター長は「資料を手に取ってみると、改めて弓削先生の研究スタイルが伝わってきて、奄美全体のために研究していたことが分かる。弓削先生のことがもっと広く伝わるよう文献資料を保存し、活用していくことが大事になる」と話した。

企画展示会場は知名町役場フラワーホール。6日から約2週間展示する予定。

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